#5 おかげさまで

 「もう少し学ばせてください」。

音大を主席で卒業したが仕事がない。

まだ学びが足りない私は両親にお願いした。

「元気に働けるうちはこちらも頑張るから」と支援してくれ、留学を決めた。

それからスイスで受験をし、ドイツ語を勉強し、アパートを決め、留学の手続きに奔走した。

 いざ留学。準備万端で成田に乗り込み、出国前夜を居酒屋で楽しんだ。

その夜だった。それまで何の差し支えもなく馬車馬のように走り続けた私の体が、ついに悲鳴を上げた。

翌日の飛行機には乗れず、新幹線で福島に帰った。全てがキャンセルになってしまった。

家族は「生き急ぎ過ぎていたんだ。少しゆっくりしなさい」と慰めてくれたが、私はもうこれで終わりかと、人生の底を感じた。

 時を同じくして、祖母ががんのステージ4と診断された。

私は両親が共働きだったため、幼稚園と小学校は祖父母の家から通っていた。その頃はまだ祖父も働いていたから、祖母と私はたくさんの時間を一緒に過ごした。

思い出、たくさんある。

まだ思い出にするには早過ぎる。

まだ生きていてほしい…。

焦燥感に駆られ、どうにもできない自分にいら立った。

 なにより祖母本人が相当なショックだったと思うし、家族は最悪の事態も覚悟しなければいけなかった。

緩和ケアも視野に入れて考え始めたが、私は祖母にこう伝えた。

 「俺がいるから、じいちゃんのことや家のことは任せて治療に専念しよう。諦めないで頑張ろう」

 私自身が体を壊し留学できなかったのに、

〈この時間は祖父母をサポートするために神様が与えてくれたのだ〉

と都合よくポジティブになれた。

そして祖母は少しずつ前を向いてくれ、家族で闘うことを決めた。

 それから入院して壮絶な治療が始まった。

何をしていても見えない恐怖が漂っていた。

ほぼ毎日祖父にご飯を作って、何度も病院に行った。

着替えや飲み物を持って行き、「大丈夫? 元気出してね」と言って帰ってくるが、抗がん剤の副作用は想像をはるかに超えて心を締め付けた。

〈絶対に死ぬな〉何度も何度も心の中で唱えた。

 しかし病室の祖母はいつも笑顔だった。絶対につらいはずなのに…。

〈私が人生を諦めてどうするんだ〉

祖母の闘病を支えているはずなのに、私が励まされていた。

自分だけに不幸が降りかかったと思い、神様はなんて意地悪なんだと、責任転嫁してしまっていたが、それは間違いだと気付かされた。

 半年たってなんと祖母は寛解した。

なんという生命力だ。

医者も家族も皆が驚き安堵した。

〈神様はその人が乗り越えられる試練を与えてくれている〉

今度は私の番。

半年遅れたが心身ともに充足し、決意新たにスイスへと旅立った。

 それから10年以上たった今、祖父母は私の娘たちと歌を歌い、一緒に脳トレパズルをしている。

医者から5年生きられれば素晴らしいと言われていた祖母…。

今ではひ孫に会う度に声のトーンが艶やかに上がる。

そして祖父は言う。

「ヒロタカ(私のこと)は空気のようだ。お陰様で生きていられる」―。

私こそお陰様で良い人生を歩めている。  

芳賀 大峰